今日,関わっている授業が終わりを迎えました。
この授業はやや特殊な授業なのです。
約30名の学生に対して8名のスタッフが関わります。
こんなにも潤沢にスタッフを配置している授業は他に類を見ないのではないでしょうか。
この授業は学生の自己対話を通して,自分自身を見つめなおすことを
重要視しており,さらにそれを他者との対話の中で行います。
このような能力開発・人材育成という仕事をしているため,
1対1で話す機会が多くなります。
その時に必ず話すことは,
“あなたは何のために生きているのか?”
ということです。
つまり,人生のミッションについて考えさせることをします。
なぜ,そんな事をする必要があるのか。
人は,究極的に目的意識のあるものに向かってしか,
変わろうとしないし,動こうとしないから。
そんな風に自分では考えています。
能力開発・人材育成をするということは,人の人生に関わること。
そこには,相手に対して自分が“こうなって欲しい”と願う気持ちは,
多く入れてはいけないように思います。
相手の進みたい道を見つける手助けをし,
その道を進むための後押しをしてあげること。
それが,能力開発・人材育成に携わる人にできることなのではないかと思います。
しかしながら,これは大学というフィールドで仕事をしているから言えることで,
実際の企業や組織で仕事をしていたら,この限りではないと思います。
なぜなら,企業や組織には理念があるからです。
その理念に沿った人材育成を行わなければならないから。
その意味で,何かの制約を受けず真っ白なキャンバスに向かって仕事をできる今の環境は,
私にとっては天職だと言えると最近思います。
この授業は,今回で5回目です。
後期からは,6回目が始まりますがこの授業を通して,
学生と関わっていく中で,私自身成長させられていることに気がつく今日この頃です。
本当に,人は人によって生かされているのだと思います。
関連http://book--log.blogspot.com/2009/07/blog-post_30.html
1つ季節が移り変わる。
ラベル: 日常
責任と覚悟
自分の仕事への取り組む姿勢について考えさせられました。
まず,自分の負かされた仕事に対して,「責任」を持つということ。
そして,「責任」をとる「覚悟」をすること。
今回,私が犯したミスは,このことを教えてくれました。
ミスを犯したときに,
「申し訳ありません」と素直にいえない自分。
「責任」の所在を,自分にあるのか他の誰かにあるのか,
有耶無耶にしながら,次に取るべき行動の説明にはいってしまう。
あるいは,自分に「責任」はないと他に責任を転嫁してしまう。
どちらも一番嫌な生き方ですが,どちらも私の生き方の1側面です。
「責任」が大きければ大きいほど,「責任」を回避しようと行動します。
「期限に間に合わなかったのは,○○のせいだ。」
要するに,「覚悟」が足りないのです。
ミスを自分のミスとして受け入れる「覚悟」。
相手に対して,頭を下げて謝る勇気。
自分が,凡庸だということを認める寛容。
すべてが,私にはまだまだ足りない。
そんな風に,今回の経験は語ってくれました。
今回のこのミスから得られた経験を,自分でどのように消化し,
理解し,受け入れるのか。ミスをしないための小手先の改善策ではなく,
マインドとという,本質的な改善を行わなければならないと,感じました。
安売りに誘発されて。。。
仕事から帰ろうと,車に手をかけた瞬間,電話が鳴りまして,
仕事終わりの妹に呼ばれ,迎えに行きまして,一緒に帰る途中に,ふと,
安売りの殿堂「ドンキホーテ」に行かなければと,一念発起して,行きましたところ,
“安い”というイメージに誘発されて,ついつい買いすぎてしまう,いつものパターン。。。
「焼き貝柱」は必要ないない。
「スパム」は旨いけど,2つはないない。
「じゃがいもニョッキ」は食べてみたいけど,
だからと言って,2つもホワイトソースを買うのはないない。
「知恵の輪」2セットは必要ないない。
とにかく,予定の金額の2倍はかかっています。
恐るべし,安売りの殿堂,ドンキホーテ。
ラベル: 日常
心理戦(天空盤)
ラベル: 日常
最近のテーマ「自己受容・肯定,自尊心」
現在関わっている授業の一つでは,専門的な知識より,社会人基礎力など
実社会で活用できる知識・技能・態度を学びます。
この授業は,教員側からの知識伝達だけではなく,受講生同士が互いを批評的に
指摘することで成長を促しています。その授業の中に,どうしても他者からの批評が
怖いという学生がいます。
その学生の“怖い”の正体はまだつかめていませんが,私自身も昔は“怖い”という感情がありました。
そこで,最近の私の興味のテーマは
「他者からの批評が怖いのはなぜか」
というものになっています。
他者から批評されることが怖いというのは,一体何が原因なのでしょうか。
私の経験を振り返ると,
批評されるということはダメな自分を他人に見せるということ。
ダメな自分を他者に見せることは,恥ずかしいこと。
恥ずかしいことということは,カッコ悪いということ。
つまり,他者に対してカッコ良くありたいというプライドから,批評されるのが怖いになっている。
言いかえれば,カッコ悪い自分を「自分」だと受容できていないということではないだろうか。
「他者からの批評が怖い」の本質の一つは,「自己受容ができていない」なのかもしれません。
これは,私の考えで何の論拠もありませんが,
論文を検索しているなかで,以下のような結論を述べているものがありました。
「自尊心の低い人は,どのようなフィードバックもネガティブにとらえる。
一方,自尊心の高い人は,フィードバックを適切に受け取ることができる。」
つまり,自尊心を高めることが批評を適切に受け取ることにつながるということです。
では,自尊心と自己受容の関連について考えなければなりません。
辞書で調べると,
自尊心:個人が自分自身に対してもつ,自己に対する価値評価とそれにともなう感情。自分自身を価値ある存在として知覚することができ,かつ自分自身を信頼できて初めて,人間は積極的に生活することが可能となる。(教育用語辞典)
自己受容:自己の現実の姿について正確に観察を行い,自己の特徴と価値判断を含めずに十分に自覚すること。(教育用語辞典)
と,記載されています。
このことから,自己受容→自尊心となるのではないかと考えられます。
ですが,その間におそらく自己肯定感が入ると私は考えました。
自己肯定感:自己自身の存在に対する認識として,自己の身体的な特徴や能力や性格などについて肯定的に考えたり,感じたりする感情をさす。(教育用語辞典)
自らの現状を正確に判断し自覚する(自己受容:価値判断なし)→自己の存在を肯定的に捉える(自己肯定感:価値判断あり)→自分自身を価値ある存在として知覚(自尊心:価値判断あり)
このような流れがあるのではないかと考えました。
他者からの批評を適切に受け取れるようになるためには,
自己受容から行わなければならないのではないでしょうか。
今後,自己受容をどのように促すかについて,考えなければなりません。